明治時代の真宗寺と今宮橋
飛騨地方には、約1万年前からすでに人々が暮らしていました。また、縄文時代中期(約5000年前)の遺跡が多く発見されており、ムラ(集落)が形成されていたことが確認できます。
5世紀までには、飛騨地方は大和政権の支配下に入り、各地に多くの古墳が築かれました。
大化の改新(645年)によって租庸調の税制度がはじまると、飛騨の国は庸調の免税の代わりに都の造営工事に携わる匠丁(しょうてい)を差し出すことになり、毎年100人を越える労働者が都へ上りました。そうした中から飛騨の大工の高い技術が脈々と受け継がれ、今日の飛騨の匠の伝統となりました。古川盆地には、当時の寺院跡が幾つも確認されています。
建武年間、南朝から飛騨国司に姉小路家綱が補任され、古河家、小島家、小鷹利家(向家)の三家に分かれて古川盆地を統治しました。また、高原郷は江馬氏、益田・大野両郡は飛騨国守護京極氏の被官であった三木氏がそれぞれ支配するようになりました。やがて、三木氏は古川盆地に勢力を拡大し、享禄4年(1531)姉小路氏を攻め、古河家は滅び、他の二家の勢力は衰えました。天正10年(1582)ついに三木氏は江馬氏を滅ぼして飛騨を統一しました。
天正13年(1585)金森長近が羽柴秀吉の命を受けて三木氏を討ち、以後六代にわたり飛騨を治めました。元禄5年(1692)に金森氏が転封となってからは、飛騨は幕府直轄の天領となり代官、郡代が派遣され、170年余にわたって統治されました。
明治元年(1868)5月飛騨は飛騨県となり、同年6月には高山県と改称されましたが、明治4年(1871)11月に高山県が廃止され、信州松本に県庁を置く筑摩県に編入されました。
明治9年(1876)8月に筑摩県の廃止により、飛騨は岐阜県に編入され、明治22年6月町村制施行により飛騨は3郡5町29村の地方行政組織となりました。
昭和25年(1950)6月船津町、阿曽布村、袖川村が合併し神岡町となり、昭和31年(1956)4月古川町・細江村・小鷹利村が合併して古川町となり、同年9月坂上村、坂下村が合併して宮川村となりました。
そして平成16年(2004)2月古川町、河合村、宮川村、神岡町が合併し、今日の飛騨市が誕生しました。
神岡祭
飛騨市には伝統芸能や伝統行事が豊富にあり、国の重要無形民俗文化財である『古川祭・起し太鼓』や河合町の『小雀獅子』、飛騨の三大祭りの一つである『神岡祭(時代行列)』などの伝統芸能や、親鸞聖人を偲ぶ古川町『三寺まいり』などの伝統行事が今日まで継承されています。なかでも毎年4月19日、20日に行われる『古川祭・起し太鼓』と、1月15日に行われる『三寺まいり』は全国的に知られ、毎年多くの観光客が訪れています。
飛騨の匠文化館
古川町市街地の家々の軒下の腕木には、飛騨の匠の技術と心を受け継ぐ古川大工ならではの「雲」と呼ばれる装飾された美しい彫刻がみられます。また、近世以降の「飛騨の匠」の技は、京都及び江戸の文化を吸収しながら、古川祭の屋台彫刻をはじめ一刀彫や神岡町の春慶塗などへと多様な発展を遂げ、伝統産業として受け継がれています。
飛騨春慶
飛騨市には多くの伝統工芸が現代まで引き継がれています。
無風でも独特の情緒ある“揺れ”を見せる古川町『和ろうそく』、一位の木を一刀一刀気持ちを込めて彫り上げる『一位一刀彫』、雪上で楮(こうぞ)をさらして自然漂白するという独特の手法を用いる河合町『山中和紙』、木材の肌や木目を生かし軽くて透きとおる漆塗りの美しさが特徴の神岡町『飛騨春慶塗』など、その地域ごとに遠い昔から親から子へ子から孫へ大切に受け継がれてきています。
飛騨牛
飛騨市は豊かな自然を持つとともに、平野が少なく標高差が大きい複雑な地形であることから、地域ごとに多様な気候風土を形成しており、その地域の気候、風土、歴史に根づいた豊かな食材と特色ある食文化がたくさんあります。
豊かな地の食材を使った昔ながらの郷土料理は今も作り継がれており、また、赤かぶや朴葉味噌、飛騨牛、地酒などは全国的に知られ、各シーズンには飛騨の“食”を求めて多くの観光客が訪れています。